井戸の底の遠い音

パレスチナ支持、国際情勢批判、国家批判、社会批判、人道主義・ヒューマニズム支持、私の思考

私のカレンダー(私たちのカレンダー)は血にまみれている

 

 

 

私のカレンダー(私たちのカレンダー)は血にまみれている

 

 



 

私のカレンダーで、(私たちのカレンダーで、)

 

国家による暴力、

国家の弾圧や煽動、

米・イスラエルによる他国民の一方的殺戮、

戦争、

内戦、

災害、

 

…等で血の流れなかった日なんて、

 

(世界中の歴史を厳密に考えれば、)

一日も、ないのだろうな

本当に一日も、だ

 

 

「だから何?」って……?

 

そうだね……、

確かに、うまく言えない

 

 

今回の台湾地震の被害者のかたの数は、

今日(2024/4/3)、

報道されている数では、済まないでしょう

(たとえば東日本大震災の時と同じですね、

あの時も、いっちばん最初は、死者20人とか、そんな報道でしたよね、

そのこと自体は、どうこうではなく、報道への情報の入り方ということで、仕方ない面もあるだろう)

 

 

今回の(おそらく甚大な)台湾の地震被害について……、

被害を受けたかたについて……、

私、できる限りで支援、支え、をしたい思いでは、います

 

 

それはそうなのだ、本心で、

でも、

こんなこと、グニャッとブログに書いたりしてもね……

 

 

ただの私の<お気持ち表明>でしかないのではないか?

そうだね、その思い、も、あります

 

 

それに、

実際的な話で言うと、

私の経済力では、たとえば寄付的なこと、ほぼ、何もできないかも知れないし……。

 

いや……

そういう「ゼロ・100」(ゼロ・ひゃく)の思考は、良くねえんだ、まあ

 

少しでも、できることがあれば(+私からの押し付け、私の自己満足、ではなくて、被災者の人々に役立つこと、で、の条件付きだが)、やろう、と考えようっと

 

 

……まあ、でも、大したことできないのは確かだ……。

私は私自身が不甲斐ない……。

 

 

 

太宰治が志賀直哉を何故あんなに憎悪をこめて罵倒したか

 

太宰治志賀直哉を何故あんなに憎悪をこめて罵倒したか

 

を…

 

ときどき最近考えている。

 

戦前・戦時中の、

翼賛体制のもとの時代、

特高治安維持法、が跋扈していた時代、

そして人々・民衆の精神の内面にも、翼賛体制が内面化されていた時代、

の文化人、作家の

悲しさ、みじめさ、おぞましさ、

というものが、あの憎悪の現象の中に、ある気がするのである。

 

ふわっと考えたってばかりの、

私の考えで書いてしまうのだが、

 

志賀直哉が、

翼賛体制下の時代。特高治安維持法・全国民的に翼賛性とファシズムが内面化されていた時代。

にあって、

文化人の悲しさ、みじめさ、に無縁でいたということはない。

彼だって、

戦時中の日本という国家権力(国家暴力)に、屈従させられ、服従させられた状態。

みじめな状態、おぞましい状態で生存していた、せざるを得なかった。

そういう作家、の一人、で、あったのだ。

(というか、あの醜い時代には、すべての文化人が、そうであったのだ。

当時、老年のため、あるいは疾病のため等で引退・隠居などの状態であった文化人以外に、ひとりの例外もない。

この「ひとりの例外も無さ」は戦時中・翼賛体制時代の日本は本当に徹底している。)

 

でも太宰は、

志賀直哉が、<太宰ほどには、戦時中、屈従して、みじめでは、いなかった>ことが、

許せなかったのだと思う。

戦後期に。

 

ふわっとした書き方で済まないが、

 

太宰の性格・人格にある、

人間の弱さ、悲しさ、

 

そして、それが、特に、あの昭和20年まで、の、

戦時下の翼賛体制ムードの時代…。

特高治安維持法が跋扈していて、「国民」の精神にも体制への服従・適応が内面化されていた時代…、

に、

太宰治が、

文化人・作家であってしまったこととで、

悲しい相乗効果を起こしてしまっていたこと、

 

そのことの、悲しさ、哀れさ、

 

……が、

 

太宰の、志賀への罵倒に、現れている、

そんな気がするのである。

 

 

要は、(繰り返しになってしまうが、)

 

太宰は、言ってしまうと、戦時中、みじめな…、権力に対し、哀れな姿を取っていた。(文化人だれしもがそうではあったのだが。)

 

志賀だって、権力、翼賛体制に対し、そうでなかったわけでは、ない。

 

けれど、志賀が、太宰ほどには、「みじめで権力に対し哀れな姿でなかった」ことで、

太宰は志賀を憎んだ……。

 

そんな風に思う次第だ…、私。

(繰り返しになってしまったが。)

 

 

じゃあ……、

(と、さらに考えてみる、)

 

たとえば……、

 

治安維持法下の、翼賛体制下の、戦時体制下の、

国家総動員法下の、

あの時代に「知識人、文化人、作家、演劇人、他、etc.」ではなかった人は、

 

幸運で、勝ちだったのか?

 

つまり、

あの戦時体制時代より前の時代に生きた文化人。

あるいは、あの戦時体制時代より後の時代に成人した文化人。

 

は、

運に恵まれていて、勝ち組だったのか?

 

まあ、そういうことでもないのではないか。

 

戦前に活動期を迎えていようと(戦時中は隠居状態)、

戦後に成人して活動期を迎えようと、

別に、文化人も、非文化人も、

国家権力に服従する、あるいは資本主義に服従するという、

屈辱から、

まぬがれては、ない。

 

ない。

 

ただ、

それはそうだけれども、

やはり、

あの昭和初期時代(戦時下)に生きて活動期であった文化人の置かれた状況のおぞましさ、は、

知れば知るほど異様ではある……。

 

そうではないだろうか?

 

 

 

どうでもいい独り言(チラシの裏)(このブログのこと)

 

 

このブログ、bloggerに移そうかな……?

 

はてなBlogがいけないという訳ではない。

書きやすい。

 

ただ、私、他のブログもbloggerでやってきているので、些少の程度だけどblogger慣れしているんだよね。

一方、はてなBlogはこれが初めてで、慣れてない。

 

はてなBlog……、探求すればするほど面白さや便利さがあるだろう、こと、は分かる。

(まあどのブログコミュニティ、ブログサービスもそうだろうとしても。)

 

でも今の私には、はてなBlog、はてブロコミュニティを勉強することに時間をかけるよりは、

慣れたbloggerでこのブログを扱う方が、

効率がいい…、気が、してきた。

 

「そんなの、はてなBlogを探求、勉強、深めればいい話じゃないか」?

そう、それも一案なのだが、

ざっぱくな言葉で言ってしまうと、

私の、精神的に元気で活動できる残り年数って、たかが知れてるので(40代後半)、

時間は効率よく使いたいんだよね……。

 

いや、まあ、このブログをまあ読んでもらえないのは、ブログサービスの問題ではない。

そこは流石に私でも分かっている。

で、そもそも、だれかに、読んで欲しいのか、どうなのか?って観点もある。

うーん、どうだ?

まあちょっとは読まれたいかな……。

 

ただの独り言、チラシの裏となってしまったが。

 

 

 

ブログ村への登録 + はてなブログの使い方

 

 

ブログ村への登録 + はてなブログの使い方

 

 

 

ブログ村への登録カテゴリーは、

ちょっと考えて、

(あまりピッタリするのが無く、)

当面、と言っては失礼ですが、

「国際政治・外交」カテゴリーと「思想」カテゴリーにしました。

両カテゴリーの皆さん(そして両カテゴリーの読者の皆さん)、

不定期更新の本ブログですが、よろしくお願いします。

 

 

話が変わりまして、

はてなブログの機能の使いこなし方ですが、

タグ機能…は最初から何となく分かる感があり使っているのですが、

グループ等のコミュニティ機能の方は、

はてな文化圏の初心者であるためと、

まだ勉強をしていないため、

まだよく分かっていません。

だんだんわかってきましたら、コミュニティ的な機能も使ってみたいと思っています。

 

 

以上、ブログ関連だけの内容となりましたが、これで終わりといたします。

 

 

 

ともかく、ここから立つ。できる範囲で立つ、自分の足の上に。

 

ともかく、ここから立つ。できる範囲で立つ、自分の足の上に。

 

 

100かゼロか、という考えをするのはやめて、

(いや、それすら、私はしていなかったのだ、考えることも、まともには、しなかった、)

 

100のうちの2や3でもいいから、

(何が100かは、そうだな、私が、勤労時間、通勤、職場での労働、生活営為、に割く体力、気力、知力がありますよね。これらは必須でどうにも動かせないものです。で、これらを私から全て引き抜いて、残ったエネルギー、力(ちから)、を、全てパレスチナへの支持と連帯、イスラエルへの抗議、のために注いだ場合を100とする。)

 

そう100のうちの2とか3でもいいから、

立とう。

(いや、立つといっても、街頭に行くのはちょっとハードルが高くて……。我ながら恥ずかしいのだけど……。

立つというのは、ここで私が言っているのは、まず情報を追っていく、それも、なるべく西側べったりではないニュースメディアを見る、というぐらいのことから、です。)

 

ほんのちょっとでいいから、立とう。

(本当は「ちょっと」ではまったく駄目なのは分かっている。)

 

あと、「ことさら言うなよ」って感じでもありますが、

わたしUNRWAカンパは一定額、やっています。

(というのか、UNRWAカンパは、数年前から、ずっと、毎月まとまった額、続けてきています。2023年10月以来は私なりにということだけど、更にギアを上げて、行い続けてきていますし、UNRWAを、UNRWAの人々を、私はリスペクトしています。)

 

このUNRWAカンパは、まあ、石にかじりついてでも続けます。

 

けど、カンパ、そう、カンパは役立つ。

でも、カンパには、当然と言えば当然かも知れないが、人が殺されるのを止めることへの、「一定の即時的」・実効的な力は、ないのだ。

だから、当たり前なのだけど、<私、カンパはしているし>で安住するのは、論外です。

そこは分かっている……。

 

 

2024/03/10

 

どのみち、今の私、脱・状況者です。敗者…、負け犬主義者(?)と言っていい。

 

どのみち、今の私、脱・状況者です。敗者…、負け犬主義者(?)と言っていい。

 

 

正直、

情報を追ってすらいなくて、

なので状況をキャッチアップするどころか。

パレスチナ情勢の、それにかかわる国際情勢、国内情勢の)状況に、遅れている、私は。

 

 

それは勝つ、負けるの話ではないけど、

こういう、情報を追うこともしない人間が増えることが、

イスラエル(+米国+NATO)の、

もっとも喜ぶところでしょう。

市民が虐殺の現状、状況、真実、趨勢、意図、を追いかけなくなれば、

イスラエル達は、好き放題に中東で、パレスチナで、やりたい報道の、残忍な行為、非人道的な行為を、やれるんだから。

 

 

そう考えると私は、私を、負けさせてる……(イスラエルに対し)。

 

 

本当はイスラエルの所業に、パレスチナにおける虐殺に、抗議することは、ひとびとを連帯させるものでなければならない

 

本当はイスラエルの所業に、パレスチナにおける虐殺に、抗議することは、ひとびとを連帯させるものでなければならない

 

なのに、

イスラエルの所業(国家によるパレスチナ人の虐殺、パレスチナ人に対するジェノサイド)、

パレスチナにおける、その結果としての非人道的状況(人道危機)、

を語ることは、

ひとびと、

例えば、

私とあなた、

私と私の職場の同僚、

を、「分かつ」ものになってしまっている。

 

これこそが、イスラエルが数十年かけて築いてきた、勝利の仕組みなのだ。

 

私は、そのイスラエルが勝利する仕組みに、負け屈してる。

 

2024/03/10